差別的表現の良し悪し
差別につながる言葉を「放送禁止用語」として扱い、そういった表現を避けようという動きが始まってから久しいのですが、この考え方、賛否両論いろいろあるようです。
この動きそのものは、私も大事なことだとは思っています。しかし、この動きを起こした人たちの中には、行き過ぎだろうと思う程に「言葉狩り」をする向きもあるようです。その結果、既に名作として知られている映画やテレビドラマの中の言葉までほじくり出し、その部分を無音にするため、つじつまが合わなくなったり、わかりにくくなったりすることが多々あります。
その一方、無頓着なくせに妙にエリート気取りの若手脚本化が作り上げる小劇場系の舞台の中では、古式ゆかしき表現をしたいのか何なのかわかりませんが、この現代にはあり得ないような差別語を平気で使っていたりするケースも見られます。
私はこう考えます。
言葉は、それぞれの時代の象徴ですから、昔の作品まで穿り出して論い、「これは差別語だからカットしろ」というのは、理不尽だし、作品そのものを損ねる行為だと思うのです。特に、時代劇などにこのケースは多く見られます。むしろ、そんなふうに表現されてきた歴史もあるのだということを、忘れないようにするためにも、消さずに残しておくべきだと思います。
最近、一つ良いケースの時代劇があって、「このドラマ中には、一部現代では不適切と思われる表現が含まれていますが、当時の作品のまま再現しますのでご了承ください。」といった内容のテロップが出ていたそうです。しかし、これはさべつを受ける側にある視覚障害者には伝わらないことなので、テロップと同時に音声でも挿入してもらえるとより良くなると思います。
私は先天性の視覚障害者ですので、かれこれ45年ほど盲人をやっている、いわゆる「ベテラン盲人」ですから、もう何を言われても深く傷つくことはありませんが、やはり「メクラ」などと言われるとさすがに良い気持ちはしません。ですから、そういった言葉を使わないようにしてもらうことは、歓迎すべき動きだとは思っているのです。
だから、これから生み出されていく作品に関しては、きっちり表現を検討して使ってほしいとは思っているのです。
そんな中、先日、知り合いの役者が出ているコントを観にいったら、上にも述べたように、無頓着に差別表現を使っていて、ひやりとしました。もちろん私自信もあまり良い気持ちではなかったけれど、他に障害を持っている観客がいたら、どんな気持ちになるのだろうと思ったからです。このコントを書いていたのは、どうやら私より少し下の世代の女性だったようなのですが、おそらく昭和初期の小説なども読むようなエリートさんなのではないかと推察しました。その頃の小説には往々にして差別語が使われているのです。また、言葉としてだけでなく、異様に手の長い女というのを出してきて、それをネタにして面白おかしく表現していたのも、なんだか居心地の悪い感じがしました。せっかく全体的には面白いコント作品だったのに、なんだか後味の悪い舞台になっていました。
また、最近、私の大好きな「ハリー・ポッター・シリーズ」を書いたイギリスの作家・J.K.ローリングさんが発表した「吟遊詩人ビードルの物語」の中に、ちょっとひっかかる表現が出てきて、これまたとても面白い作品なのに、嫌な感じを持ったところがありました。
一つは、ある怪物の描写として「盲目的に獰猛な」と表していたところ。もう一つは、ホグワーツ魔法魔術学校の問題教師が角が取れて穏やかになってきたという話のところで「手足が1本と半分しかないのでは大人しくならざるを得なかった」というような、面白さを演出するためだけとしか思えない蛇足分があったことです。後者に関しては、私もうっかり吹き出してしまったのですが、これはもしかして、肢体不自由の人が読んだら、ちょっと嫌な気持ちになるんじゃないかしらと、胸がキュッとしました。
ローリングさんも私と同世代の人だし、翻訳者の松岡さんも言葉に敏感な人だと思うのにと、ちょっと寂しく思いました。
原文でどう書かれているのか、訳す段階で何かできなかったのかと考えていたら、今朝はちょっと寝不足気味になってしまいました。
「過去をありのままに認めながら反省し、今後を変えて(改善して)行く。」そんな考え方が私は好きなのですが、皆さんはどう思われますか?
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