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春うらら
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仲良し飴

 冬から春に移るこの季節、花粉症や気管支炎など、様々なアレルギー症状でお悩みの方が多いようです。
 私は、花粉症はないのですが、毎年気管支炎に悩まされます。ようやくあまり咳も出なくなって落ち着いてきましたが、屋内・屋外の空気の違いや気温の違いで、突発的に咳の嵐が襲ってきたりするのです。これはもう、芝居やコンサートなどの客席にいるときには、手のつけようがありません。
 この花粉症や咳などのアレルギー症状を緩和してくれる物の一つが、各種の飴たちです。いま、スーパーやコンビニに行くと、様々な種類の飴が売られています。特に、喉飴の種類は多く、何を買ったら良いのか迷ってしまいます。
 花粉症の方向けのスースーする飴は、私にはミントがきつすぎて不向きだし、ノンシュガーのキシリトール系の飴は何個か舐めているうちにお腹の調子が悪くなってきます。
 意外なことに、薬用効果のまったくなさそうなチューレットキャンディーである森永ハイチュウが、口解けの良さが決め手になるのか、最も即効性があることに、今年になってから気づきました。ということで、最近咳き込んでは困る舞台を観に行くときには、なるべくハイチュウを持っていくようにしています。

 さて、これがなぜ福祉コラムになるのか、疑問に思われている方も多いことでしょう。大丈夫です。ちゃんとつながります。

 それは今月頭のことでした。その日は3月とは思えないようなかなり寒い雨催い(あまもよい)の日で、強風も吹きまくっていました。電車の本数の極端に少ない駅の夜の時間帯、私はパートナーと一緒にいました。事情があって半日以上タバコから切り離されていた彼はホームの喫煙コーナーで一服したがっていたのですが、体調の加減で私が嫌がったため、ちょっと気まずい状態になりました。「一人でいってらっしゃいよ」「いや、もう時間まないからいい」「じゃぁ、ハイチュウあげる」「要らない」ちょっとすねてしまったような声を聞いていたらせつなくなってしまい、とっさに出た言葉が「ハイチュウは仲良し飴なのに」という言葉でした。この時持っていたハイチュウは、4種類入っている袋入りのキャンディーだったので、「これは何味?」という会話をしながら食べると楽しいのです。もちろん、嫌いな味のが入っている
わけではないので食べてみれば何味かわかるのですが、袋から適当に取り出したのが何味なのかを見てもらったりしていると、だんだん楽しくなってくるんじゃないかと思ったのです。本当に険悪な仲であれば、ただうっとうしいだけになってかえってマイナスになると思うのですが、やはりこの「仲良し飴なのに」の一言は功を奏したようで、ついに彼のすねすねモードも解けて、ハイチュウは小さな予言どおり仲良し飴となったのでした。

 飴は、目的によってもいろいろ選ぶことになりますが、お友達同士で半分楽しみとして舐めるなら、ハイチュウに限らず、いろんな味の物が混在する飴でわいわい交換し合うのはきっと楽しいはずです。

 逆に、全盲の私が自力で何味か判ったら、一人で舐めていても楽しいかもしれないと思い、先日久しぶりに缶入りのサクマのドロップスを買ってみました。これには、いろんな味のドロップが入っているだけでなく、形も様々なので、もしかしたら形で味の違いが分るようになっていないかと思ったのです。
 でも、残念ながら、その法則性はないようでした。
 缶の中に入っている状態では、誰にも見えていませんが、缶からコロコロと手のひらに振り出したドロップが、色だけで「あ、ハッカだ」とか「お、オレンジだ!」などと分るのは、ちょっと楽しいことです。これが、出てきた形を瞬間的に触って分るようになっていたら、全盲の人も、色覚障害の人も、同じように楽しい気持ちになれるのではないかと思ったのですが、やはり、それぞれの色が様々な形をしているほうが、一般的には芸術的で楽しいということなのでしょうか。

 以前、ピーチ、マスカット、桜、さくらんぼの4種類が入った袋入りキャンディーを買ったことがあったのですが、この中の桜の飴というのが、桜の花の形をしていました。このように、別な形の型を使えば、それぞれの味の元になっているフルーツの形の飴を作り、それを詰め合わせれば、もしかするとユニバーサルデザインキャンディーができるのではないかと思ったものです。
 上に書いたドロップスでは、直接ドロップ本体に触ってしまうのでむりですが、個包装になっていれば、暗いところで見える人に好きな飴を選んであげられるかもしれません。

 ほんのちょっとの楽しみ合いなのですが、私の造語である「仲良し飴」を、さらに形を工夫することによって、「UD版仲良し飴」にしてくれる製菓会社がどこかにないものでしょうか。
 そんな甘ーい夢を見ている美月なのでした。


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(「週刊福祉情報」コラムニスト・美月めぐみ)



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by amedia  at 16:53  | Permalink

点字も墨字も相手を気遣って

 視覚障害者関連の用語ですが、点字に対して、一般的な文字のことを「墨字(すみじ)」といいます。これは、書道として書かれた墨を使った文字ということではなく、鉛筆・ボールペン・万年筆で手書きされた文字も一般の活字もパソコンからプリントアウトした文字も含めた全ての目で読む文字の総称です。おそらく、日本に点字が入ってきたのが明治時代で、その頃一般の文字は墨で書かれるのが普通だったからそう呼ばれるようになったのではないかと推察しています。

 さて、弱視の人を含めた多くの墨字ユーザーの中には、個人の資質や性格によって、綺麗に手書きできる人と、そうでもない人がいます。ただ、どんなに悪筆な人でも、小さい頃から「丁寧に」とか「綺麗に」とか「読みやすく」と耳にタコができるくらい言われて練習してきているはずです。しかも、小中学校で学んだ全ての漢字を使いこなせる人はそうはいないにせよ、この9年間、書き取りの授業をみっちりやって
、そうとうな数の漢字を覚えて読み書きできるようになっているのです。
 そして、大人も子供も、自分のためのメモ書きは自分さえ判ればいいという程度に適当に書き、人の目に触れる文章では恥ずかしくないよう丁寧に書く、といった使い分けをしています。じつは、私は「恥ずかしくないように」というより、「人が読みやすいように思いやって」といった教育をしてほしいと思っているのですが。
 いずれにせよ、小さい頃から、「書く」という一点において、これだけ時間と気を遣ってきているのです。

 いっぽう、小さい頃から目が不自由な場合、その分点字を学ぶわけです。通常の点字の場合、日本語を表記するに当たっては、1種類のカナ文字に相当する物を覚えればどんな文章でも読み書きできます。つまり、6点漢字や8点式漢点字といった特別に開発されたシステムを除いて、通常の点字には漢字という物がないのです。ですから、学習障害との二重障害でなければ、小学部1年生のうちに、一通りの読み書きをマスターすることになります。
 ただし盲学校では、弱視の子たちが漢字の書き取りをしている間、ただぼーっとしているわけではなく、学習能力を高めるために、点字の速度撃ちや聞き書き、左手で点字を読みながら右手でそれを書き写す「転写」の訓練を行なっています。…少なくとも、1970年代前半に私の通っていた福島県立平(たいら)盲学校の場合はそうでした。

 こうして、シンプルに覚えられる点字ではありますが、それにも読みやすい点字と読みにくい点字があります。まず、点字は出っ張っているかどうかで判断する文字なので、中途半端な出方の点字や穴が空いて虫食いみたいになった点字は非常に読みにくいのです。しかも、1点でも違えば、ただ汚いというだけでは済まされず、別な字になってしまう恐ろしさがあります。例えばお料理の本で、「にんじん」と書くはずが、1点だけ違ってしまい、「にんげんを みじんぎりに して ください」などという風になり、料理本が一転恐ろしい殺人マニュアルになってしまうわけです。この場合、「し」は、1・2・5・6の点ですが、「け」は1・2・4・6の点で、ほんとうに1点ずれただけなのです。
 さらに、カナの羅列は読みにくいので、一定の分かち書きのルールを設け、読みやすいように工夫されているので、本当はこれもマスターしなければなりません。 ということで、点字ユーザーも「丁寧に書かなければならない」という意識を持っていなければならないのです。

 ところが、この意識は、墨字の本を点字に訳す「点訳者」にのみ多く求められ、肝心の点字ユーザー側はかなりいい加減な人が多いのが現状です。
 分かち書きや表記の仕方がしょっちゅう変動している中で、それを完全にマスターすることは難しいとは思いますが、人に読まれる文章はなるべく丁寧に書こうとする気持ちは、視覚障害者ももっと持っているべきなのです。「表記やルールの変動」ということでは、実は墨字の社会も「国語審議会」等の決め事で、やはり年々変動しているのですから、点字だけが特別なわけではありません。
 ただし、そこまで完全にルールを遵守するのでは常に勉強し続けなければならないので、とりあえず、読みやすくさえあれば良いのではないかと考えています。こう書くと「何を当たり前のことを書いてるのか」と思われそうですが、その当たり前のことをおろそかにしている人を多く見かけるのです。文節分かち書きが、「過去のどんなルールにもあった例がない」ような物だったり、あっちこっち書き損ねてつぶしたらしいけれど中途半端な出方になっていて判読の難しい点字だったり。
 しかも、図書館などでは、「ご用件は墨字の書かれていない紙をお使いください」
と行っているにも関わらず、チラシなどに平気で点字を打って送ってくるケースも多々あると聞いています。まぁ確かにエコロジー的な視点では悪くないかもしれませんが、読む相手に対する思いやりを欠く行為であることは否めません。

 この意識が(いや無意識というべきでしょうか)、パソコンによる文字入力にも現れているケースも見られます。
 よく見かけるのは、固有名詞の表記ミスです。先日も、mixi内の日記のコメントで、「黒はんぺん」の話題に対するコメントで「くろはんてん」と書いている視覚障害の方を見かけました。気を遣っているのか、誰からも指摘はなかったのですが、ちょっとの注意で避けられるミスだなと思い、なんだか少し悲しくなりました。
 また、多くの視覚障害者が集うメーリングリストで、物凄い当て字になっている文章をアップしてくる人もいます。その中のお一人が、「めんどうだから、全部入力してから一括変換しているのだ」と書いておられるのを見たときも、本当に悲しく思いました。

 点字にせよ墨字にせよ、そして目が見えるにせよ見えないにせよ、読んでいる人の立場に立って、読みやすい文字=丁寧な書き方を心がけていきたいものです。

by amedia  at 15:44  | Permalink

差別的表現の良し悪し

 差別につながる言葉を「放送禁止用語」として扱い、そういった表現を避けようという動きが始まってから久しいのですが、この考え方、賛否両論いろいろあるようです。
 この動きそのものは、私も大事なことだとは思っています。しかし、この動きを起こした人たちの中には、行き過ぎだろうと思う程に「言葉狩り」をする向きもあるようです。その結果、既に名作として知られている映画やテレビドラマの中の言葉までほじくり出し、その部分を無音にするため、つじつまが合わなくなったり、わかりにくくなったりすることが多々あります。
 その一方、無頓着なくせに妙にエリート気取りの若手脚本化が作り上げる小劇場系の舞台の中では、古式ゆかしき表現をしたいのか何なのかわかりませんが、この現代にはあり得ないような差別語を平気で使っていたりするケースも見られます。

 私はこう考えます。
 言葉は、それぞれの時代の象徴ですから、昔の作品まで穿り出して論い、「これは差別語だからカットしろ」というのは、理不尽だし、作品そのものを損ねる行為だと思うのです。特に、時代劇などにこのケースは多く見られます。むしろ、そんなふうに表現されてきた歴史もあるのだということを、忘れないようにするためにも、消さずに残しておくべきだと思います。
 最近、一つ良いケースの時代劇があって、「このドラマ中には、一部現代では不適切と思われる表現が含まれていますが、当時の作品のまま再現しますのでご了承ください。」といった内容のテロップが出ていたそうです。しかし、これはさべつを受ける側にある視覚障害者には伝わらないことなので、テロップと同時に音声でも挿入してもらえるとより良くなると思います。

 私は先天性の視覚障害者ですので、かれこれ45年ほど盲人をやっている、いわゆる「ベテラン盲人」ですから、もう何を言われても深く傷つくことはありませんが、やはり「メクラ」などと言われるとさすがに良い気持ちはしません。ですから、そういった言葉を使わないようにしてもらうことは、歓迎すべき動きだとは思っているのです。
だから、これから生み出されていく作品に関しては、きっちり表現を検討して使ってほしいとは思っているのです。
 そんな中、先日、知り合いの役者が出ているコントを観にいったら、上にも述べたように、無頓着に差別表現を使っていて、ひやりとしました。もちろん私自信もあまり良い気持ちではなかったけれど、他に障害を持っている観客がいたら、どんな気持ちになるのだろうと思ったからです。このコントを書いていたのは、どうやら私より少し下の世代の女性だったようなのですが、おそらく昭和初期の小説なども読むようなエリートさんなのではないかと推察しました。その頃の小説には往々にして差別語が使われているのです。また、言葉としてだけでなく、異様に手の長い女というのを出してきて、それをネタにして面白おかしく表現していたのも、なんだか居心地の悪い感じがしました。せっかく全体的には面白いコント作品だったのに、なんだか後味の悪い舞台になっていました。

 また、最近、私の大好きな「ハリー・ポッター・シリーズ」を書いたイギリスの作家・J.K.ローリングさんが発表した「吟遊詩人ビードルの物語」の中に、ちょっとひっかかる表現が出てきて、これまたとても面白い作品なのに、嫌な感じを持ったところがありました。
 一つは、ある怪物の描写として「盲目的に獰猛な」と表していたところ。もう一つは、ホグワーツ魔法魔術学校の問題教師が角が取れて穏やかになってきたという話のところで「手足が1本と半分しかないのでは大人しくならざるを得なかった」というような、面白さを演出するためだけとしか思えない蛇足分があったことです。後者に関しては、私もうっかり吹き出してしまったのですが、これはもしかして、肢体不自由の人が読んだら、ちょっと嫌な気持ちになるんじゃないかしらと、胸がキュッとしました。
 ローリングさんも私と同世代の人だし、翻訳者の松岡さんも言葉に敏感な人だと思うのにと、ちょっと寂しく思いました。
 原文でどう書かれているのか、訳す段階で何かできなかったのかと考えていたら、今朝はちょっと寝不足気味になってしまいました。

 「過去をありのままに認めながら反省し、今後を変えて(改善して)行く。」そんな考え方が私は好きなのですが、皆さんはどう思われますか?


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(「週刊福祉情報」コラムニスト・美月めぐみ)

by amedia  at 18:21  | Permalink

食品サンプルとおままごと

 「百聞は一触にしかず」の話の続きみたいになります。

 先日、デリバリーのお寿司屋さんに行ったら、【ご自由にお持ち帰りください】と書かれた食品サンプルがあったとかで、うちの合方が『蟹イクラ丼』『甘エビイカ丼』と『煮帆立のにぎり』のサンプルを持って帰ってきました。 容器はまさにデリバリー用の発泡スチロールっぽい物でしたが、蓋はなし。恐る恐る触ってみると、何時間も置きっぱなしにして乾いちゃったみたいな感触の蟹とイクラがどっさり載ったご飯です。イクラは、本当にちょっとベタベタした感触なのに、離した指はさらりとしていて何も付いていないのです。要するに、触った感じも、見た感じ同様、かなり本物に近いイメージですが、明らかに作り物なのです。 でも、にぎり寿司とは違って、普段丼物には触らない(触れない?)ので、全体のレイアウトを直接的に把握できるこのサンプルは実に楽しいのです。そして、自分で盛り付けをするときの参考にもなります。
 そういえば、ここ数年のアメディアフェアのときには、甲斐商店の甲斐さんが、様々な食品サンプルを展示してくださって、私たち視覚障害者の人に自由に触らせてくださっていますが、やはり人気がある企画の一つになっているようです。

 ところで、先天性の視覚障害者の中には、お魚料理が苦手な人が多いようです。皆、お刺身は大好きなのに、特に焼き魚になると、嫌な顔をします。
 それは、骨が邪魔で食べにくいというのが最大の原因になっているようなのです。
 斯く言う私も、本当はお魚が大好きなのに、人前できれいに食べられないからという理由で、嫌いなふりをしていた時期がありました。
 でも、これってそうとうつまらない理由だと思うのです。お魚はとても美味しいし、体にも良いのです。だから、なんとかして、素直に食べたいものです。
 それには、まずそれぞれの魚の特徴を知る必要があります。比較的小さいお魚はそのままバリバリ食べられる物もあります。開きで焼いてある物は、左手の指でそっと端を押さえて、反対側の身をお箸で挟んで外側に引っ張ると、きれいに背骨から離れてくれて食べやすくなったりします。この食べ方で一番楽なのが、柳鰈(やなぎがれい)です。あまり生臭くないので、押さえるほうの指もそんなに臭いが付いたりしないし、身離れも良いのです。
 また、一緒にいる人に、食べにくそうかどうか聞いてみて、これは手に負えないと判断したら、素直に選り分け作業をお願いしてしまうのもありだと思います。
 こんなふうに、魚自体の構造を理解するのに、視覚障害児が遊びながら学習できるようなおもちゃがあれば良いと思います。一般に売れるかどうか判断は難しいのですが、20年以上前から小さな女の子たちの間で使われているおままごと『ままごとトントン』シリーズのように、食材が分解できて、またマジックテープでくっつけられるタイプの物の一つの形態として開発してもらって、盲学校の教材にするなど考えられないものでしょうか。お魚の身と骨が分けられるような物です。そうでなくても、布の絵本の製作ボランティアの人たちに協力してもらうなどして、同種のおもちゃ教材を作ってもらうと良いかもしれません。

 また、盲学校の卒業学年の特別授業に『テーブルマナー』というのがありました。
これも、実際にお皿の上のお肉を切ったり、パラポロと細かいミックスベジタブルをフォークに載せたりして食べる前に、お皿の上のレイアウトを再現した食品サンプルを教材にして、しっかり触らせたり、粘土やウレタンなどでステーキの感触に近い素材を研究して、それをお皿の上で切る練習をさせたりしてみてはどうでしょうか。もったいなくない素材で何度も何度も繰り返し練習すれば、自力の食事範囲も広がると思うのです。
 私はけっこう不器用な子だったので、お肉を切るのに夢中になっていると、付け合せのベジタブルがテーブルの上に集団移動していたりして、大分苦労したものです。
 今では、かなりましな食べ方ができるようになり、ハンバーグのように切りやすい物はしっかり自力でいただきますが、ステーキやソテーなどは一緒に食事している人をはらはらさせないように、お願いして一口大に切ってもらうことが多いです。

 このように、「百聞は一触にしかず」は何事においても生かされることです。直接触ってはいけない物を視覚障害児に理解・習得させるには、そういった工夫をどんどん取り入れていくことが大事だと思っています。

 などということをつらつら考えながら触って遊んでいたお寿司屋さんのサンプルは、押入れの天袋の敷居にひっかけて飾っておくことにしました。あまり手の届くところにあると、お腹が空いてしかたがありませんから。(笑)

by amedia  at 17:31  | Permalink